原付協奏曲

1980年代の流行、出来事、文化
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原付協奏曲 〜1982年、僕らがゼロハンに恋した季節〜

今年、原付(原動機付自転車第1種)に関する大きな法改正があった。

排気量50cc以下という従来の枠組みが変わり、「総排気量125cc以下、かつ最高出力を4.0kW(5.4馬力)以下に制御したバイク」が、新たな原付1種として扱われることになったのだ。時代の大きな節目を感じるとともに、私の脳裏には、あの喧騒と熱気に満ちた「1982年(昭和57年)」の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

これは、私とはじめての相棒たちが奏でた、短いけれど最高に眩しかった青春の狂詩曲(ラプソディ)の記録である。

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5千円を握りしめ、引っ掛け問題の罠を突破せよ

当時も今も、原付免許は16歳から取得できる。

私の通っていた高校は、バイクの免許取得を全面禁止にまではしていなかったが「届出制」だった。16歳の誕生日を迎えると、同級生たちは2つのルートに分かれた。試験場へ行って一発で原付免許を取るか、それとも教習所に通って中型二輪免許(400ccまで)を取るか、だ。

当時の原付試験は、受験・交付手数料を合わせても3,000円〜3,500円程度。5,000円札が1枚あればお釣りが来た。教習所に何万も払う余裕などない。バイク本体を買う予算のことも考えれば、私には「原付一択」しか選択肢はなかった。

試験はペーパーテストのみで、90%以上の正解が合格ライン。 誕生日の2週間前、父親がおもむろに「原付試験問題集」を買ってきてくれた。今思えば、これがすべての勝因だった。

「右折・左折の合図は交差点の30m手前で行う(※停止線ではなく交差点からなので◯)」 「徐行とは時速15km以下のことである(※法的な速度定義はないので×)」 「自動車の速度制限が40キロの道路では、原付も40キロで走って良い(※原付の法定速度は30キロなので×)」

もしこの問題集がなかったら、父親が免許更新の時にもらってきた「交通の教則」だけを読んで試験に挑んでいただろう。あの独特な「引っ掛け問題」の罠にハマり、確実に不合格になっていたはずだ。

試験場に赴くと、周りには「代書屋」や、今日の試験問題のパターンを教えるという怪しげな対策屋の看板が並んでいたが、私は脇目も振らずに受付へ。

結果は見事、一発合格だった。

ロードパルからスカイへ、そして「おんまかれた」夕刊

免許を取って最初に跨ったのは、母親の愛車だった「ホンダ・ロードパル」。 ママチャリのフレームを太くして無理やりエンジンを載せたようなスタイルで、ガソリンタンクが荷台の下にあるため、跨がなくても乗れる手軽なバイクだった。オートマチックの2速ギヤ仕様だったが、我が家の近所にある急坂を登りきることができず、早々に限界を迎えた。

そんな時、親戚のおじさんに免許取得を報告したら、「タクト」ではなく「スズキ・スカイ」というスクーターを譲り受けることになった。

当時の書類変更手続きは実に大らかだった。外したナンバープレートを区役所の市民税課へ持っていくだけで、その場ですぐに新しいナンバーを発行してもらえた。スカイにはセンタースタンドしかなかったため、近所のバイク屋でわざわざサイドスタンドを注文して取り付け、いっぱしの「自分の相棒」へと仕立てていった。

だが、私の記念すべき「初ゴケ」を奪ったのも、このスカイだった。

当時、友人の紹介で早朝に機関紙を配達するバイトをしていたのだが、その働きっぷりを見た他の新聞配達員から「夕刊も配らないか?」とスカウトされたのだ。まわせるビジネスバイクが足りないというので、しばらくは自分のスカイで配達することになった。

夕刊の配達エリアは、販売所から坂を登った先にある団地とその周辺。広告が挟み込まれた夕刊はズッシリと重く、前カゴと後ろの荷台に載せても一度では配りきれない。何度も販売所を往復する過酷な仕事だった。

ある日、工事現場の横を通りかかった時のことだ。道路に散らばった砂に、スカイの小さなタイヤが足元をすくわれた。スクーター特有の小径タイヤは、砂やギャップに滅法弱い。

ズサァァァッ!

派手に転倒した瞬間、前カゴと荷台から、大事な新聞が道路へとドサーッと「おんまかれた(ぶちまけられた)」。パニックになりながら、這いつくばって新聞をかき集めた苦い記憶は、今でも忘れられない。

やがて、念願の「カブ」か「メイト」のどちらか(配達といえばコレ、というあのビジネスバイクだ)が私にもまわってきた。しかし、あてがわれたのは販売所で一番ボロい個体。ブレーキの効きは最悪で、スピードも全然出ない。

けれど、そんなクセの強いバイクを、ロータリーギヤを足元で「ガチャガチャ」と鳴らしながら乗りこなす感覚は、不思議と楽しかった。

冬の寒い日。パラパラと雪が降り始めた団地への急坂を登り、すべての配達を終えた。 さあ帰ろうと販売所への坂道を下ろうとした時、降り続いた雪がうっすらと路面を覆っていた。車も人も通らない、さながら「スキー場」のような真っ白な急坂。

一直線に下る私のバイクの後輪が、一瞬でツルリと滑った。 映画『AKIRA』の金田さながら、車体を真横に滑らせる「金田のバイク状態」のまま、私はその急坂を横滑りで一気に下りきった。九死に一生を得たスリルと興奮で、心臓がバクバクしていた。

そうして必死に汗を流し、雪に震えながら貯めたバイト代。 「次こそは、自分の本当に欲しいバイクを買う」 そう決めていた私の悩みは、深く、そして最高に楽しいものだった。

誰も被らなかった日曜日、7台の協奏曲

「原付はリミッターがないからさ、直線じゃデカいバイクに負けるけど、峠ならいい勝負するんだぜ!」

学校のクラスでは、そんな噂を大真面目に信じて熱弁する奴がいた。みんながこぞって原付を買い、あるいは「何を買うか」の話題で持ちきりだった。 私のこだわりはシンプルだった。「みんなと被らないこと」「ギヤ付きの2サイクル・スポーツであること」、そして「予算的に他よりちょっと安いこと」。

その条件を満たした究極の選択が、「KAWASAKI AR50」だった。

友人から譲り受けたフルフェイスのヘルメットに、誇らしげに「KAWASAKI」の黒文字ステッカーを貼る。 左手でクラッチを握り、左足のつま先でギヤを上げ下げする。2サイクルの高回転エンジンをいっぱいに回し、

「ベーンツクツク、ベンベーンツクツク……!」

独特の小気味いいエンジン音を響かせながら、私は街を駆け抜けた。

ある日、原付を手に入れたクラスメイトたちと、休日に集まろうということになった。 場所は、日曜日には閉館している近所の公共施設の駐車場。

集まったのは総勢7人ほど。毎日学校で「アレが欲しい」「コレがいい」とカタログを広げて語り合っていたせいだろうか。並んだ7台のバイクは、見事なまでに1台も被っていなかった。全員が、意識して人と違う個性を主張していたのだ。

今でも覚えている、あの日のラインナップ。

  • 私の、KAWASAKI AR50

  • 水冷ゼロハンスポーツの先駆者、YAMAHA RZ50

  • ホンダの意地が詰まった、HONDA MBX50

  • レーサーレプリカの血統、SUZUKI RG50Γ(ガンマ)

  • 渋い4ストのアメリカンスタイル、SUZUKI GN50

他にも、デジタルメーターが未来を先取りしていた高級スクーターのスペイシーや、オフロードバイクで乗り付けてきた奴もいた。

私たちは、暴走族の集会と間違われるのを恐れて、あえてエンジンをかけずに集まった。つるんで暴走するわけでもなく、ただお互いのピカピカの愛車を褒め合い、跨らせてもらい、それぞれの個性を讃え合っていた。

しかし、ご近所さんが通報したのだろう。すぐにバイクに乗ったおまわりさんが2人、静かに駐車場に入ってきた。

「なにしてるの〜?」

職務質問が始まり、免許証の提示を求められた。私たちは、嬉しくてたまらないといった様子で、財布からケースから、手に入れたばかりの傷ひとつない「ピカピカの免許証」を、ためらうことなく全員で一斉に差し出した。

私たちの無邪気な顔と、エンジンすら切っている大人しさに拍子抜けしたのか、おまわりさんは苦笑いしながらこう言った。

「大きな音は出さないでね。なるべく早く解散してね」

それだけ言うと、おまわりさんたちは帰っていった。 用件が済んだ私たちも、それ以上することもなく、すぐにその場で解散した。

不思議なことに、原付に乗って集まったのは、後にも先頭にもこの1回きりだった。

免許証の「1」に刻まれた、あの夏の勲章

私たちの「原付の季節」は、驚くほど短かった。 高校卒業が近づくにつれ、みんなの関心はあっという間に「自動車免許」の取得へと移り変わっていったからだ。

私も無事に自動車免許を取得した。だが、私の免許証の「種類」の欄には、今でも車の免許とは別に、「原付」のマスに独立して「1」の文字が刻まれている。

これは車の免許のおまけ(付随)で原付に乗れるようになった人にはない、あの昭和57年、16歳の夏に自分の力で試験場へ行き、引っ掛け問題を突破して合格した人間だけが持つ、小さな勲章だ。

あの時、公共施設の駐車場に集まった仲間の何人かは、卒業と同時に車へと乗り換えていった。けれど、私は車を買う余裕がなかったこともあり、その後も2年ほど、AR50を大切に乗り続けた。

夕刊を配って凍えた手、砂利道でおんまかれた新聞紙、そして耳の奥に残る「ベーンツクツク」という高回転の排気音。

令和の新しい原付のニュースを眺めながら、私は今、自分の免許証の「1」の文字をそっと指でなぞっている。あの短くも熱かった2サイクルの時代は、今でも私の中で、最高の思い出として走り続けている。

(完)

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